背中

*** 『背中』 ***

声をかけたのは、どちらだったか…。

1度目は偶然、2度目は必然――…。

夕焼けを眺めて柵になれかかる彼の後ろ姿が、彼の背中が綺麗だと思った。

泣いているようにも見えた。

この夕空に吸い込まれるような、綺麗な瞳をしていた。

※※※

「それじゃあ、また…」

彼の背中を初めて見たあの日から、彼とは時折会っていた。

こちらからは連絡はせず、彼が時間の空く時にだけ携帯に連絡が入るようになっている。

待ち合わせ場所は決まって、ホテルのロビー。

それが、お互いの条件だった。

会話はない。ただ、お互いの欲望をはけ口として、一夜を共にするだけ。

強引にシーツに押さえつけ、柔らかく吸い付くような肌に、痕を刻む。

震えて、火照る躰。濡れた瞳、誘う肉厚な口唇。

荒い息を繰り返しながら、貪欲に求め合う。

“痛みと、快楽――…”

「帰るんですか？」

「ああ…」

彼は、もう用はないとばかりに、衣服を身に着けドアへと向かう。

振り返ることはなかった。

部屋には、静けさだけが残った。

始めはこんなつもりなどなかったのだ。

誘ったのは、きまぐれだったにすぎない。

（彼の背中があまりにも綺麗だったから――…）

なぜか彼は、軽い冗談のつもりで言った誘いに、のってきた。

それからなんとなく続いている、躰だけの関係。

俺はどうしたいんだろう…。

「高耶さん…ッ」

胸が締め付けられる。彼を帰したくなかった。

彼といられるこの時間が永遠に続けばいいと思った。

――いつからだろうか

この関係に痛みを伴うようになったのは。

彼の連絡を待つだけの日々は、もう限界に近い。

でも、言えない。

この偽りの関係でも、自分から断ち切る勇気なんて無い。

アナタハドウイウツモリデ、オレニダカレルノ？

本心が見えない、真実がみえない。

俺はあなたのこころが知りたいのに。

※※※

――突然、彼からの連絡が途絶えた。

ここ2週間以上連絡がない。

思い切ってこちらから着信履歴のメモリーに電話をかけてみても、着信拒否になっていた。

「もう忘れろよ、直江」

「……千秋。」

「俺は、考えてみたら高耶さんのこと名前以外何ひとつ知らない。
　なのに、彼のことを考えるだけで……息ができないんだッ」

会いたい　会いたい　会いたい会いたい

「千秋俺は、あのひとの笑った顔さえも見たことはないんだ――…」

※※※

――初めてだった

こんなに、執着することなんてなかった。

仕事をして、ただ会社のことだけ考えていればよかった。

見合いをして、親の進められるままに結婚し、日常が過ぎていくのだと、そう考えていた。

感情なんて必要なかった。

『直江…』

（あなたの声が聞きたい…）

※※※

興信所に依頼して、彼の居場所を突き止めた。

親はいない。一人暮らし。

足を運んだ彼の家の玄関先で、子犬が彼の足元にしがみつくのを見た。

声をかけようとした、その時―――……

子犬を抱きかかえて、彼は

“微笑ったのだ”

―――……理由もなく、涙がこぼれた。

求めていたのは、彼の微笑み。

なんと穏やかで、優しいんだろう。

そして、綺麗だと思った。

そう、初めて彼の姿を、背中を見て感じた時のように。

自分の前では一度も見せたことのなかった、表情。

あのひとは、どういう風に笑うのだろうかと、いつも考えていた。

※※※

「――高耶さん」

声をかけた。

「なお…ッどうし―――」

高耶は、直江の姿を見つけ驚きを隠せない様子だ。

「――調べたのか？」

「ええ…」

――…沈黙がおちる

「ルール違反じゃねぇのか。」

「そうですね」

「どうして来たんだ。どうして…ッ」

高耶は、今にも泣きそうな顔をして、直江に背を向けた。

「おまえとは、もう終わりにするつもりだった。2度と会わないと決めたのに」

「あなたは平気なんですか？」

「――…直江」

「どうして俺に抱かれたの？」

「なお…っ」

「もう、こんな関係続けていけないっ」

高耶が声をあげる前に、直江はキツク抱きしめる。

直江の慟哭に、高耶は目を閉じた。天に許しを請うように…、そっと。

「あなたを、愛しているんだ…ッ」

※※※

――初めは、直江という男がどんな男だろうという好奇心からだった。

「高耶、私別れたいの。」

「美奈子、なぜなんだ…ッ！」

「――…好きな人ができたのよ」

恋人からの突然の別れ話。相手は、見合い相手だといった。

自分の中の何かが、壊れてゆくような気がした。

だから、これは単なる未練だったのかもしれない。

美奈子が好きになるという相手の男を、一目見てみようという気がおこったのだ。

その相手の男は、会社のビル屋上で、一人、夕陽を眺めていた。

何を思ってこの夕空をみつめているのだろうか…。

男の瞳に映る空を自分も覗いて見たいと、なぜだか、そう感じた。

だから、あの日、おまえと出会ったあの日、

男が見つめていた同じ場所で、オレは夕空を眺めていた。

※※※

「どうしてだろう。オレは、おまえを恨んでいるはずなのに。
　美奈子の心を捕らえたおまえを、恨んでいいはずなのに――…」

「高耶さん？」

今度は自分が、彼女を裏切っていた。

罪悪感は消えない。

どうしてあの時、おまえの誘いをうけたのかは、自分でもよくわからない。

ただ――……

「オレは、こんなにも美しい光景を、空を、見たことはなかったんだ」

限りなく続く太陽の赤に魅せられて、心を惹きつけて離さない。

それでいて、どこか苦しさをも感じるこの広大な自然の偉大さに、

自分という存在がひどく小さく見えてしまうから。

「同じ想いで空を見上げるやつを、嫌いになれるはずがない」

「……高耶さん」

「オレを本当の意味で満たしてくれるのは、おまえだけだった」

「オレも愛してるよ、直江」

※※※

――あなたを想って眠れぬ夜が何度もあった。

ただあなたへの想いに溺れて、お互いの欲望を撒き散らすだけの行為。

これは愛なんかじゃないと、言い聞かせてきた。

彼に出会ったときから捕らわれていたと、自覚した時には既に遅かったのだ。

たった一言を伝えることができなかった。

行為の後、彼が消えてしまってから何度も何度も後悔した。

消えた彼を、ただ想いつづけることしかできなくて――……

答えは、簡単だったのに

アイシテイル

その一言だけでよかったのに

あなたの言葉が、俺を天に導いてくれた。

そう、……光だ。

※※※

「ずっとひとりで生きてきたの？」

「――両親は、中学の時事故で死んだ」

「それじゃ、寂しかったでしょう」

高耶は、静かに泣いていた。

「でも、これからは側にいる」

「なおえ…」

「ずっとあなたの側に」

「信じていいのか？オレは、たぶん裏切られるのが怖いんだ…」

「私の誓いは、嘘じゃない」

「――…直江」

※※※

ああ、今ならわかる。

なぜ彼に、高耶さんに声をかけたのか。

あの空を見上げた彼の背中は、語っていた。

“寂しい”と

“誰かに側にいて欲しい”と

何も求めず、機械のような日常をただ過ごしてきたこの俺の

心の奥底で抱えていた“孤独”を、

彼の中にもあるのだと、気づいてしまったから。

「もっと強く…抱きしめてくれ」

――もう、おまえなしでは生きてはいけない。

　　　あなたなしでは、生きてはいられない。

――こんなに弱くなってる。

　　　あなたの側以外では、もう息することさえできない

愛してるよ

　おまえを
　あなたを――…

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